この間読んだ、「鉱物と人生」最後の一部のみ紹介します。
この文は昭和27年のものですが、この内容ははたして古いでしょうか?


この時代、「竹の子生活*1」が多く、竹の子研究者も多かったと聞きます。
「週に二日は休みが欲しい」とか、「学会の旅費は公費からでなけりゃ困る」と
いったような、昨今の研究者とは志が違います*2

限りない宇宙の神秘を、限りある今の科学で予見することは
困難である。ただ限りある現在の科学を、あらゆる方向に押し進める
ことによってのみ、そのいずれかが無限の世界に連なるのである。
雲に隠れた群山のうち、勝手に一つの峯を予定し、すべての人を
これに向わせんとする努力は、高嶺を極める道ではない。科学者たちが
その信念と天分に応じて、思い思いの荊(いばら)の道をすすんでこそ、
そのあるものが遠い高嶺に連なる道を自分も知らずに選ぶのである。
その選択を御先の真暗な、さもないまでも10年先の見通しは困難な
国策や、政治家などに断じて委ぬべきではない。
 さればといって先の見通しの容易ではない研究には、政府も
資本家も喜んで金は出さぬ。僅か2年か3年先の見通しに適った研究
だけが、時を得顔に推進される。これではいつの代になっても、
積木細工を弄ぶようで、大建築の土台はできない。けれどもそれを
本当に知るのは、恐らく学徒だけであり、苦しい中にも彼らは自分の
信念の下に、天分に応じて進むのである。世間がそれを認めまいと、
資本家の援助が無かろうと、ただ一筋に進むところに彼らの真の生命がある。
国策におもねり、資本家にへつらうのは、真に国家のためでもなければ
人類の幸福のためでもない。


最近、渡辺万次郎大先生ネタが多いですが、たぶんそれは気のせいではありません。


ただし、私は研究精神論者ではありませんし、ストイックに研究しろと言っている
わけでもありません。念のため。
紙と鉛筆(地学ではハンマーとクリノメーターと言われる)だけでも研究ができる時代は終わったのです。
それで矢部センセと神津センセのぶつかり合いが始まったと聞いています。


「しばわんこの和の心」を読む。悪くはないんだけど、強く引きつけられるものはない。
犬はあくまでもイメージキャラクター的な使い方しかされていない。
白泉社っぽいよねえ。


しばわんこの和のこころ

しばわんこの和のこころ


個人的な好みとしては、犬を書かせたら伊勢英子いせひでこ)。
「ちいさいモモちゃん」英語版の出たころからこの人の絵ばかり買いあさっていた。
もう15年以上たつのかな。
最近、日本語版の人形絵本が出ていたが、古い菊池貞雄のイラストから起こした人形だった。
松谷みよ子と菊池氏のつながりを考えると、菊池氏の絵はどうしてもはずすことが
できなかったんだろうね。
絵がいせひでこになったのは「アカネちゃんとお客さんのパパ」から。
英語の版は日本語版に比べ遅れたので、最初からいせひでこが書いている。



いせひでこの絵は子供受けしづらい(たとえば岩崎ちひろのように)。
で、モモちゃんシリーズ、最後は離婚したパパが死んじゃうんだよね。
うーん。そうオチたか、という感じ。
いせひでこ名義のグレイシリーズも、犬のグレイが死ぬのが結末。
いずれも、最初から読んでいると、巻を追うごとに話が重くなる。


グレイがまってるから (メルヘン共和国)

グレイがまってるから (メルヘン共和国)


などの諸々の理由で、子供に薦めるのをためらっちゃうんだよねえ。
絵もそれほど明るくないし。


でも好き。すごく好き。なぜだろう。なぜこの人の絵にここまで惹かれるんだろう。

*1:自分の衣服を売って食料に換えるという行為を、竹の子の皮を剥く行為に例えた。

*2:もちろん、今でも自腹で研究費を出している人はいっぱいいる。高専には多い。