パスツールと勝負運

このあいだ、知人と話していたのだが、パスツールはものすごく勝負運が強い。
パスツールというと、医学、生物学での多大な功績が有名だが、化学にも多くの貢献をしている。パスツールピペットを使わない実験化学者は、少ないだろう。
もっとも有名なのが、光学分割*1の実験だ。


ある寒い朝パスツールが窓際に置いた酒石酸アンモニウムナトリウム*2水溶液に目をやると、多数の結晶が析出していた。この結晶を引き上げてよく観察すると、左右の鏡面対称の結晶面のセットが確認できた。それぞれの結晶を別々に溶液にすると、円偏光がそれぞれ左右だった。酒石酸塩の組成はすでにわかっていたので、左右の鏡像性が出現するところから、炭素原子が立体的な構造をとっていることがわかった、というもの。パスツールはこのときは炭素原子が平面四角形構造ではないということに気づいてはいたが、正四面体構造であるというところまではわからなかった。


さて、この実験には2つ、大きな幸運がある。
酒石酸塩が自然分晶*3できるものは数少なく、ほとんどのものは右手系と左手系が1:1で一緒の単位格子に入ってしまう「ラセミ化合物」を形成する。ラセミ化合物は結晶全体としては右も左もない。パスツールが選んだ複塩は、たまたま右手系分子もしくは左手系分子が別々に結晶化する「ラセミ混合物」だった。この確率は酒石酸塩全体から見て、15%以下だ。
もうひとつは、この化合物は27℃以下の低温のみでしか光学分割できない。通常の熱飽和溶液からの再結晶では、ラセミ化合物を形成してしまう。パスツールの実験は、寒い冬の朝の窓際だったから、低温相のラセミ混合物が析出した。これは幸運以外の何ものでもない。


それと、これはほとんど指摘されないことだが、この実験の詳細な追試により、ファント・ホッフは炭素原子が立体的な正四面体構造を取るという画期的な論文を書いた。このときに、ファント・ホッフは光学分割後の誘導化によって合成した右旋性および左旋性の乳酸の鏡像異性体の分子構造を書くわけだが、この分子構造はキラリティに関しては完全にあてずっぽうの構造だった。結晶の反面像と分子の右左は対応はしているが、絶対構造、つまり分子の左右の判別はできないということだ。そこから、DL という立体表記が出てきた。
その後、酒石酸塩からさまざまな誘導化反応を経て、右か左かは不明だがどちらか一方のみを純粋に含んでいる化合物−光学活性化合物−の化学が花開いた。光学活性な炭素原子が反応に関与しなければ、立体は反応の前後で変わらないわけだ。
光学活性化合物の絶対構造の判定は、現在でも異常分散を用いたX線結晶構造解析が唯一の解析法である。バイフットは酒石酸ルビジウムナトリウム結晶のルビジウム原子のジルコニウムの特性X線に対する異常分散を使い、1950年にようやく酒石酸の絶対構造の判別に成功した。パスツールが Compt. Rend. *4に光学分割の実験を報告してから、100年後の話だ。
当たるも八卦、当たらぬも八卦のファント・ホッフの賭けは、見事に正しかった。
ファントホッフの書いた絶対構造は、合っていたのだ。


水晶の左右、すなわち反面像の x が柱面 m に対して右肩に出れば左回りの 31 らせん構造を取り、左肩に出れば右回りの 32 らせんを作っているという構造のウンチクは、口で言うのは簡単だが、そのデータが取れるまでに多くの苦労がある。現在でも、左右の判別が明確に付けられるのは、かなりX線結晶学に長けた人でないと難しい*5

*1:右手系分子と左手系分子を分ける操作。実験的にはかなり難しい

*2:長い間ワインを放置すると、澱やコルクに付着する針状結晶。オレはワインのビンテージなんてまったくわからないので、一度だけしかお目にかかったことがない。

*3:しぜんぶんしょう。右手系と左手系の分子がそれぞれ別個に集合して結晶を作る現象。

*4:Comptes Rendus。フランスの科学雑誌。カタカナ読みすればコント・ランデュになる。コンプトレンドと読まないように。

*5:直径 0.3 mm の結晶を、顕微鏡の下で球状に加工しろ、とかとんでもない技術を必要とされる。