科学と芸術

コメントを書いていて思い出したのですが、実は詰めると科学と芸術って、よく似ていると思うことがあります。
追究型思考の基礎科学はなおさらなんですが。
極めようとするスタイルは、共通点を多く作りますよね。


でも、明白に異なるところがあります。
それは、科学は再現性がもっとも重要視されるのに対し、芸術はそれが必要ないところです。
科学は、誰がやっても同じ結果を与えるという再現性が大前提です。あらためて言うまでもありません。
結果がバラ付くのは、実験条件がバラ付いているか、確率が大きな因子をしめている系のみです。
しかし、原則として神はサイコロを振らないんです。
初期状態の情報さえ取れていれば、同じ結果を確実に再現できます。


んがしかし、芸術には再現性は必要ありません。むしろない方が望ましかったりします。
人に感銘を与える音楽を聞くと、科学屋は「なぜこの演奏は人の心を揺さぶるのだろう?和音なのかダイナミクスなのかチューニングなのかリズムの揺らぎの妙なのか?」って探求をはじめます。
そこに、人に感銘を与えやすい因子がある、という仮説をまず立てるのです。
そのパラメータを理解できれば、再現性よく人を感動させられますものね。
そしてそのパラメータは、きちんとした物理量だ、と予想するのです。
黄金比はなぜ美しいのだろう、というようなネタも、考え始めるのはおよそ科学屋です。


でもアーティストはそうじゃないんですよね。
もっとウェットな感情を大事にするんです。ひどくなると宗教やオカルトっぽくなったりもします。
だから、サイエンティストはアーティストを「なんて思い込みが激しくて、効率が悪いんだろう」って思いますし、逆にアーティストは「なんて無味乾燥で情のない考え方をするヤツなんだろう」って食い違いができたりもします。


結晶成長はサイエンスなんですが、詰めていくと不確かな部分が多くあり、いわゆる「実験の腕」が要求されます。
それを超えてさらにその上のステージまで上がると、サイエンスよりアートに近いよな、と考えることも少なからずあります。
例えば、上の2番目の写真の上半分のモザイクは気相で昇華生成した多結晶なんですが、樹枝状のパターンの美しさは熱的非平衡さが儚く作り出した過渡的な瞬間芸術と見ることもできます。
二度と同じものを作り出すことはできません。
初期値依存度が高すぎるんだな。