南極観測船ものがたり

南極観測船ものがたり―白瀬探検隊から現在まで

南極観測船ものがたり―白瀬探検隊から現在まで


とにかく昭和基地付近に着岸するまでの砕氷がとんでもなく大変だってのがわかりました。
実はこれ、どうしようもない悪い立地を割り当てで押し付けられちゃったのです。


国際地球観測年の予行演習で、第一次越冬隊が編成されたんですが、第二次の本番では宗谷はとうとう上陸できませんでした。
このとき、宗谷は1ヶ月間ビゼット(氷に閉じ込められて船がまったく動けなくなること)の苦渋を味わってます。

1957年の大晦日から吹き始めた北東からのブリザードは、周辺の群氷をさらに引き締め、「宗谷」の周りでは氷盤が重なり合って盛り上がり、飛行甲板の高さまで達した。「宗谷」は、一ヶ月間ビゼットされることになった。松本船長の言葉を借りれば、「関東平野ぐらいの氷野」に閉じ込められたまま西に圧流され、クック岬のはるか北方に至って脱出できたのは、翌年の二月六日だった。

しょうがないのでアメリカの援助を受けて飛行機を何度も往復させ、なんとか第一次越冬隊の人員回収だけできたんですが、樺太犬は置いてきました。
これが日本で一番有名な緊縛放置プレイ、タロジロの話です。
飛行機の積載能力はたかが300キロ。何度往復しても、でかい樺太犬を載せるゆとりなぞありません。
もたくさしていると、また船が氷海の虜になります。
母犬「シロ子」と越冬中に産まれた子犬だけは回収してきました。ただし、その分の重量のガソリンを昭和基地に捨ててきました。
そのぐらい緊迫した状況だったのです。
すぐさま、宗谷と、アメリカのお助け砕氷船「バートンアイランド号」は氷原をダイナマイトで爆破しながら脱出します。


非力な船ってのは、悲しいものなのです。


決して高倉健を責めてはいけません。


しかし、二代目「ふじ」はさらに非力で、18回の航海で6回しか接岸できていません。
みんなビンボが悪いんや。


三代目「しらせ」は優秀な船で、22回の航海でたった1回だけ接岸できなかったのですが、それ以外は見事にたどり着いています。
それにしても、30回やそこらの航海で、あの旧しらせがボロボロに老朽化するってのは、砕氷航海がいかに船体に過酷かをあらわしていると言えましょう。
一回の南極航海で、船体劣化の減価償却10億円ですから。むろん燃料費は別ですよ。


タロもジロもリキもアンコも風連のクマも、好きで置いてきたわけじゃありません。
スコット隊なんか、片っ端から馬を喰ってたんですぜ。


しかし、しかしですね、西堀氏*1は映画「南極物語」でみんなが見せるような、ウェットな感情で意思決定したりはしません。
彼は科学者ですから。
使役犬は愛玩犬とは違います。
これを取り違えると、エスキモーの世界や、西堀氏の考えを理解することは難しいでしょう。
生半可な犬は極寒地では何の役にも立ちません。そもそも犬同士の喧嘩で瞬時にかみ殺されてしまうでしょう。
道具として使える犬。そこまで訓練されていたからこそみんなの信頼を得ていましたし、断腸の思いで捨ててきたのです。


さて、なんで私が南極ネタが好きかと申しますと、単純に「越冬隊に行きたかった」だけなんです。
しかし、越冬隊は化学のテーマはないんだな。実験室では平気で -200℃まで冷やせちゃうしね。
オヤジも、第一次越冬隊公募に出して蹴られてます。
そりゃそうだ。南極には木がありません。そこに建具屋の職人が行ったって、丘に上がったカッパだぜよ。
というわけで、我々親子が飲むと、いつも「南極に行きたかったね」という話になります。
私が行ったわけではないのですが、私が普段鉱物採集で使っているドカヘルは JARE のものです。

これをオヤジは妙に欲しがります。
やってもいいんだけど、ペツルのライトを外すんがだるいんであげません。


極地、特に南極は、ロマンが埋蔵されているに違いないです。
私はこういう「霞」を食べながら暮らすタイプの男なんだな、と、この本を読んで考えましたとさ。


(追記)学生さんに聞いてみると「へ?南極物語?なんですかそれ?」という驚愕の意見が返ってきたので、念のためタロジロの話を書きます。
ちょうど50年前の第一次南極越冬観測隊の引き上げで、犬ぞり用に連れて行った樺太犬を上記の理由で連れ帰ることができず、第二次隊との人員交換にも失敗したので、22頭の犬を紐につないで一月分の身欠き鰊を置いて南極に放置してきたのです。
一年後の一月、第三次隊を送り込むと、二匹の犬が鎖を抜け、生き残っていました。これがタロとジロです。
この逸話をもとに作ったのが映画「南極物語」。
二匹の犬はその後死にましたが、ジロの剥製は科博にあります。


もののけも悪くはないんですが、やっぱり夏目雅子です。

*1:西堀栄三郎。第一次南極越冬観測隊隊長。もとは京大で無機化学の教鞭を取っていました。雪山賛歌の作詞者でもあります。