毛も生えない

リスク(危険性)とベネフィット(便益)のシーソーゲームがリスク評価の基本なんだけれど、うまく見積もられてないケースをここ最近、しばしば目の当たりにする。
高すぎるリスクの見積もり、逆に低すぎるもの。
あるいは、ベネフィットの存在をまったく忘れた不毛な議論。
潜在化したリスクはしょうがないにしても。
判断項目の一つ一つについて、リスクを総和して、これをベネフィットの総和と比較判定して判断決定するべきなのだけれど、リスク評価が統計論だから、評価者によってまちまち。
危険域の取り方ひとつを取ってみても違うし、そもそも評価基準となるデータの選び方に恣意性があるのだから。


で、どうもこのリスク一つ一つに、人によって(無意識か意識的かは不明)、重み因子が乗算されているようだ。
これは、リスク評価のばらつきより、はるかに大きいみたい。
大きすぎるものを「ヒステリー」と呼ぶ。
リスクおよびベネフィットをきちんと評価し、この重みをできうる限りすべて1に近づけること、これが寺田の言う「正当にこわがる」という行為に他ならない。

寺田寅彦の、浅間の噴火に対するコメント


「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」


ベネフィットは人によってまちまちなので、リスクとの比較も人によってばらつき、結果として判断は個人個人の裁量に基づいて決定されることとなる。
これが「理性的で、かつ、合理的」あること。
こうありたいね。


人の判断に振り回され、押し付けられるのは気持ちの良いものではない。
選択の自由は個人にあるべき。
すると当然、理性的なデータ収集、考慮、判断が必要となる。
それをサボると、時として自分の納得のいかない判断結果を押し付けられるよ。
そのときになって文句を言わないようにしようね。