カリウムの鏡

リンク元が「カリウムミラー」の検索で来る人がいらっしゃるので、もうご存知だと思いますが、軽く説明しておきます。
水分および酸素を極端に嫌う反応や化合物を取り扱うときは、どうしてもこれらを取り除かなければなりません。
特に気をつけなければならないのは溶媒で、化合物に比べてかなり多めに使うため、しっかり脱水脱気しないとあっという間にサンプルが死にます。
で、ある程度脱水した溶媒は、最終的にカリウムで乾燥させます。
ガラス容器をしっかり加熱乾燥させ、この中を真空に引いて、アルゴンまたは窒素で充填します。
これに小豆粒大の金属カリウムを入れ、真空に引いて、そこそこの減圧度でカリウムをライターであぶると、カリウムが融解し、蒸発してカリウムの青みがかった金属鏡ができます*1
これをもう一度不活性雰囲気で戻して、この中に予備乾燥させた溶媒を放り込んでおきます。
中に溶け込んだ水分はこの操作でほとんど無くなります。
水が多いと、カリウムの鏡はすべて消費されてしまいます。
慣れると、カリウムの膜厚をコントロールすることも可能です。
ベタベタの厚みのカリウム鏡の上に数週間も溶媒を乗せておくと、ものすごく水分が抜けます。ちょっと温めるとより脱水が早まります。この状態の溶媒を一部の研究者は「スーパードライ」と呼びます。
で、この溶媒にはまだ気体が溶け込んでおり、一部は酸素なので、これを凍結脱気すると、完全に脱水+脱気できた溶媒が調製できます。
これを真空ラインでフラスコに蒸留して移しこむわけです。
このぐらい水気を抜くと、紫外吸収スペクトル測定ができるぐらい希薄な濃度の不安定化学種でも問題なく取り扱うことができます。


なんでいまさらこんなこと書くかといいますと、このカリウムを原因としてよく火災が起こるのです。
真空ラインに溶媒とカリウムが入った容器を吊るしておくと、なんかのきっかけで落っこちたり、あるいは容器が割れたりすると、簡単に火が出ます。
カリウムは水と接触すると必ず火が出ますし、活性の高いものなら酸素との接触でも火が出ます。
この火が溶媒に火を付けるわけです。
なので、カリウムミラーを張った容器は、できることなら吊るしっぱなしにしないでください。
そもそも、カリウムミラーなんて、使わないにこしたことありません。
スーパードライの溶媒が必要な化合物ってそんなにちょくちょくでてきませんし、きちんと脱水脱気したモレキュラーシーブで用が足りることがほとんど。
実験に慣れないうちは、失敗を恐れるあまり、とにかくすべての操作を厳密にやりたくなるものです。
それが間違っているとは言いませんが、度を過ごした厳密さは、時間の無駄だし不経済です。
失敗しない程度に最大限に「いい加減」の手抜きをする。これが重要です。


でも、カリウムでないとダメなのももちろんあります。
適材適所。実験がうまくいくのも大事ですが、まず安全性を取ってください。
潜在的な危険に気付かないのは問題ありです。
自分の実験で起こりえる最悪の事故をまず想定して、その不安要因をすべて取り除くように頭の中でシミュレートしてから実験してください。
リスクアセスメントの考えは大事です。


物質の危険性を知らずに取り扱うのは問題外です。
そういう人は指導者ととことんまで打ち合わせしてください。
決して一人で突っ走らないように。


さて、ここまで読んでくれた方は、研究者の化学実験が「料理本のレシピ*2どおりにやるように」進むわけではないということに気付かれていると思います。
化学実験は三分間クッキングではありません。
書いてある量のとおり混ぜればオールオッケーっていうものではありません*3
ここらへんについて誤解している人が多く「化学実験みたいな料理」という表現があります。
この表現は好きではないです*4
きっと、そういう方は、中学や高校の化学実験をそんな風にやってしまったので、間違った認識を身に付けてしまったのでしょう。
他の自然科学と同じく、実験化学は「観察をもとに思考する学問」です。
常に試料の状態に気を払い、現在の状態と予想される状況を対照させて次の操作を判断決定します。対話といってもいいでしょう。
「実験の腕」と言われますが、大体の場合はこの観察能力と判断の良否のことを指します。これがダメだと、いつまでたっても「料理本のような」化学実験しかできません*5

*1:カリウム、ナトリウムは比較的蒸気圧が高いので、真空下では容易に蒸留できます。

*2:recipe という言葉はもちろん「製法」「処方」という意味もあるのですが、あまり日本語の「レシピ」を化学実験に使いたくないです。これはオレだけの語感でしょうから、ここにツッコミを入れないでね。

*3:そういう化学実験を cookbook chemistry と言います。日本語だと「混ぜ屋の仕事」と表現されます。某宗教団体のサリン合成などが典型です。

*4:「料理と化学を一緒にするな」と前は言っていたのですが、友人がプロの料理人になり、料理も想像よりはるかに奥が深いということを教えてもらったので、今はそうは考えていません。

*5:研究の場合は思考能力を要求されますが、製造の方では工程化できないと困ります。作業に当たる人が頭を使わなくてもいいレベルまで指示書に記載する必要があります。観察と思考判断ができるのは、一部の人だけです。