土団子

姪(小学校3年)から、突然の贈りものを頂きました。
うやうやしく受け取り、何かと思って丁寧に包まれたティシューの包みを開けたら、中から第三紀のノジュールみたいのが転がりだしてきました。
土団子でした。
うーん。久しぶりだな、土団子。
真球に近く、砂目も美しい信楽風味のものでした。
渋い、渋すぎるぜ。


私もよく作りました。小学校に上がる前の話ですが。
私たちの中では、信楽風ではなく、手垢で磨きをかけ、いかに美しい光沢を出すか(有田風)に専念したものです。
大きすぎると表面の光沢層が剥げやすく、品質管理が難しいので中庸のサイズのものをいくつか作り、この中で整形に成功したものに磨きをかけるのです。
光沢が美しく、ディンプル(くぼみ)が少なく、真球に近いものが理想です。
歩留まりは極端に悪く、10個作ってまともなものが一つできるかどうか。
しかも、愛情を込める磨きの作業は、多数のものには向きません。
本当に少数ロットです。
すばらしい土団子の製作に成功すれば、仲間内で賞賛と羨望のまなざしを受けることができます。


今だったら、型を作ってこの中に砂と接着剤(水ガラスとかの無機系)を入れ、硬化後に離型し、整形後に御座入鉱山あたりの最高級カオリナイトをスプレー吹きつけし、ベルトとバフで光沢を出すだろうなー、とか考えました。
いい歳をして何を考えているのだろうと自問自答しましたが、彼女の土団子に対する情熱は理解できます。
私も通ってきた道だからです。
鉱物をこよなく愛する私は、その情熱をまだ引きずっているのかもしれません。
普通の人は土団子への情熱は急速に冷却し、何かしら他のものへ(たとえばミニカーとか)移行するでしょう。
そして大人になり、そういうものに対する興味を失ってしまうかもしれません。
永遠に形を留めておけるものなど存在しません。
すべての有形のものはいつかは消失します。
無形のものはさらに儚いでしょう。
永遠の愛、名誉、金。そんなものは彼女の作る土団子と同じです。
彼女にとってかけがえの無い土団子。大人になった我々の大事なものと何ら変わりありません。
土団子を落とせば粉々に割れてしまうように、我々の作り上げてきたものもいつかは色あせ、陳腐化することでしょう。


私が子供のときに夢見た理想的な土団子は、とうとう土団子作りへの情熱が冷めるまで作り上げることができませんでした。
どこかしら欠点のあるものしか作り出せず、妥協するしかなかったのです。
きっとそれは、私の想像力(ひらたく言えば、私の心)の中にしか存在できなかったのでしょうね。


我々はいくつ土団子を作り、磨き上げ、壊し、なつかしむ作業を繰り返さなければならないのでしょうか。