美味しいもの二題

エビの尻尾

あるとき、医学博士の知人と昼食を共にした。
煤け古ぼけた蕎麦屋で珍しく豪勢に天婦羅蕎麦を注文し、他愛無い話をしながら蕎麦をすすった。
ほぼ完全に食したところで、知人が手洗いに席を立った。
皿にはエビの尻尾が二つ残った。こちらも向こうも。
従業員が声を掛けることなく、膳を下げた。


手洗いから戻った知人は卓の上を見るなり、「オレのエビはどうした?」という。
聞けば、エビの尻尾を楽しみにしていたのだという。
知人は烈火の如く怒り、従業員に声を荒立て「エビを返せ」と責める。
しかし、そんなものはとうにポリバケツの中。
店主が厨房から顔を出して侘び、再びエビの天婦羅を丸々二尾揚げてもらい、それを差し出されて知人の癪は治まったのだが。


そんな彼もその後癌に倒れ、地獄の苦しみの中、延命手術を受けることもなく、鬼籍入りした。


エビの尻尾をボリボリと食べながら、そんなことを思い出した。

いいダシが出るもの

ある北アルプスの山小屋に、縦型の薪を燃やすストーブがあります。
この山小屋は年中管理人がいて、正月になると大鍋で雑煮を煮ます。
ある年の雑煮はとても美味しかったのだそうです。
正月を山で迎える山屋が口を揃えて、「今年の雑煮はうまい!」と。
管理人も、なぜ今年は雑煮の味が違うのか、訝しがったそうで。


三が日を過ぎ、雑煮の鍋を空けようと管理人が鍋の底をさらうと、粘った餅に固められた、汚い靴下が出てきました。


山屋というのはとても汚いものです。
下手すると、一週間ぐらい平気で風呂に入りません。
冬山は寒いのですが、防寒着を着て腰までの雪を何時間もラッセルすれば、当然汗だくになります。
着替えもせずに何日も同じ服で汗だくになるまで行動するのです。
靴の中は蒸れ、靴下は何とも言えない酸っぱいショッパイ芳香を放つようになります。
(この臭いだけをおかずに、ご飯が2杯はおかわりできますよ。)


山小屋のストーブの周りにはいくつもいくつもそんな服が細引きで干してあります。
そのかぐわしい靴下が人知れず雑煮の鍋に落ち、餅に囲まれながらいいダシを供給したのでしょう。


管理人は、その話を(一部の人を除いて)口外することはありませんでした。どっとはらい