マヨヒガ

深山を歩くと、しばしばヘンなもの、理解不能なものに遭遇します。


一番、妙な気持ちになるのがこれ、迷い家マヨイガ、マヨヒガ)です。


ものすごく山の中、踏み分け道(もしくはケモノ道)しかないような森の中を何時間も歩くと、ひょっこりと立派な建築物が森の中から飛び出してきます。注文の多い料理店ですか?
およその場合、誰もいません。
人がちょっと前までいた気配があることもあれば、ないことも。
「どう考えても、建材をここまで陸路で上げてこれないだろ?わざわざヘリで上げたのか?」という感じの立派な家だったり。
土呂久のずっと上にもありますよね。急斜面で道がほとんどないのに真っ黒くて異常にでっかい家が建ってるの。
およその場合は特殊な用途でこしらえた観測設備だったり、あるいはちょっと村になじめずに人里はなれて暮らしている人の住まいだったりするんですが、マジでビビります。
一回、下山途中に見つけて、下ってから地元の人に聞いても存在の確認が取れなかったことが福島の山中でありました。
なんてミステリー。
白昼夢のようです。
何も音はせず、いつもと同じ明るい森の中なのに、えらく薄気味悪くて、真っ昼間なのに背筋に冷たいものが走ります。


柳田国男遠野物語」63、64にマヨヒガの記述があります。

六三 小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二,三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿ひて蕗を採りに入りしに、よき物少なければしだいに谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くをり、馬舎ありて馬多くをれども、いつかうに人はをらず。ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもつひに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思ふ者もなかりしが、またある日わが家のカドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、これを食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸福に向かひ、つひに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガという。マヨヒガに行き当たりたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何物をも盗み来ざりしがゆゑに、この椀みづから流れて来たりしなるべしといへり。


六四 金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて人の往来する者少なし。六,七年前より栃内村の山崎なる某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷ひ、またこのマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるやうにも思はれたり。茫然として後にはだんだんと恐ろしくなり、引き返してつひに小国の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実とする者もなかりしが、山崎の方にてはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めて山の奥に入り、ここに門ありきといふところに来たれども、眼にかかるものもむなしく帰り来たりぬ。その婿もつひに金持になりたりといふことを聞かず。

(63脚注 ケセネは穀物のこと。ケセネギツは穀物を収める容器(櫃))


mayohiga


マヨイガに出会ったら、とりあえずなんかもって来てもいいのが暗黙の了解。
今はさすがに窃盗とか不法侵入云々とか言われちゃうんでそういうのは無しなんですが。
いずれにせよ、人里離れた深い山奥で、道もほとんどないのにいきなり建物が出てくるとビビるのです。
単独行ならなおさらです。
家の中を覗いて、大量のお札やお守りが貼ってあったりすると、さらにゾクゾク(それは違うか)。


遠野物語」の時代は、今の世の中にある便利なものがほとんどありませんでした。携帯電話とか、GPS とか、自動車とか。
オッカネエものは理屈なく、ただひたすらオッカネエのです。
それに手を出すものは、いつか大火傷を負います。
なるべく痛い目に遭わないように、理解不能なものはそのまま放置。すかさず立ち去ります。
いつもと違う行為を山の中でするものではありません。


いつしか街は文明で発達し、人間の驕りも目に余るようになりました。
しかしね、そのノリで山に行ったら痛い目に遭うぞ、と。
屋久島の縄文杉までハイヒールで行って途中で日が暮れ、遭難した女の子の話を聞きましたが、チョー典型ですね。
まあしかし、沢に下りなくて良かったですよ。あそこの沢はマジで下りられません。滝ばっか。
そんな感じで、年に一回は屋久島では遭難騒ぎが起こると聞いています。
あんな神様の住むような深山に、地図もまともな装備もなく踏み込むって、どういうことかわかってるんですかね。


ちかごろのわけぇもんは、オッカネェもんがワカンネェからな。イノチシラズだいなぁ。


決して冗談ではないんですよ。
超合理主義、科学を飯の種にしているオレだって、山の中のオッカネエものには手を出さないんです。


深い山の中って、ヘンなことがよく起こるのです。