審美的な判断基準

どうも、デザイナーの「眼」と、私の「眼」が食い違っているようです。
視点がずれてます。どっちが正解というわけではないんですが。
たぶん、こういう食い違いが極端に出たのが、前の堀場のカレンダーの櫻井標本でしょう。
「審美眼」のみでは図鑑写真は撮ることができない、ということをはっきりと示した、ある意味貴重な書でしたね。
あっという間に消滅しました。
標本は特級なのに、鉱物図鑑をプロデュースできる人がいなかったのです。
カメラを使いこなせて、美に対するセンスがあれば、素人さんが見て「きれいだね」って写真を撮ることはできるでしょう。
しかし、それでは図鑑を作ることはできませんし、マニアをうならせることはキビシイですよ。
大事なのは、被写体に対する知識と理解の深さ。
特異なライティングを採用して、奇をてらった美を表現するのももちろん自由です。
しかし、それ以前に図鑑写真を撮れる程度の理解がなければ、情報量の乏しさからあっという間に淘汰されてしまうでしょう。
ベントレーの雪の写真が今でも評価され続けているのは、あれがものすごくクールな図鑑写真だったからに他なりません。


どれだけ科学を理解しているか、写真にどれだけ科学的な情報を載せることができるか。
それを土台として、さらにその上にどこまで「美しさ」が積めるか。
美しさを追求すると科学的な情報は減ります。
最終的にはこの二者のトレードオフになります。
科学写真はこのバランスに真価があると考えます。
でないと、「なんにもわかってねーな、こいつ」と酷評されてしまう、かなり怖い分野なのです。