呉須

表題案件の調べものをしています。もちろん、瀬戸のものです。
瀬戸市史陶磁史編3、70−71Pにちょこっと記述があります。
http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2010111001144/

呉須(絵薬)
 呉須というのは染付焼に用いる青料(絵具)のことで、マンガン・鉄などの不純物をふくむ酸化コバルトを主体とする顔料を指している。瀬戸村で最初に発掘したときは、尾張の二代藩主徳川光友の一六六五年ごろ(寛文年間)で、陳元贇(ちんげんぴん)という明(中国)の帰化人の要望によって掘り出され、活用されている。彼は瀬戸の陶土を用い、この呉須で絵付けをし、青白色の透明釉をかけて、安南風の陶器を作っている。釉下の呉須がにじみ流れて一種の風情をあらわした焼きもので、元贇焼きの名で賞美されている。
一六六六(寛文六)年に藩の命令によって呉須の採掘が禁じられたのは、名古屋城内の御深井(おふけ)焼きに使うため、祖母懐土(瀬戸村産の陶土)の採掘を禁じたのと同時であった。後年になって染付焼がはじまると、唐左衛門が中心となって附近一帯を探鉱し、水野代官の許しを得た者を使用して盛んに掘り出した。
 採掘の方法は山の中腹に横穴を掘り、坑木も組まないで掘り進んだもので、土砂くずれのために多くの犠牲者を出した。それらの人々は名前さえ忘れ去られているが、今の瀬戸釜を築きあげた尊い人柱といえるであろう。
 染付焼の生産が日増に伸びるにつれて呉須は不足をつげ、尾張藩のお声がかりで長崎から唐呉須を買入れている。それを地呉須にまぜて用いたが、明治になって間もなく、西洋から舶来する酸化コバルトに依存するようになったので、呉須の採掘は次第におとろえ、ついに廃絶した。瀬戸の古老加藤三平が、生前に語ったところを加藤庄三の筆録した「三平老遺話」によれば、
 陣屋川の北の上・窯神山の西・池ばたの池勝工場の裏山などで、昔は呉須を掘ったので、今でもそこには空洞が残っている。一番上等なのは陣屋から出る砂絵というもので、呉須が山砂に混じっているのをカマボコ板のようなもので撰りわけたものだ。その他の場所から出るものは石絵(いわえ)といって、板のような石に付着しているもので、これは下等品であった。[この外にゴロ絵といって小石に附着したものも採取されていた]
 瀬戸の北新谷(きたしんがい)の窯屋が、大量に呉須を使用してルリ釉の磁器を焼き出した時、呉須の欠乏を心配した南新谷の窯屋から、御役所へ取締り(制限)方を願い出たことがある。そのためルリ釉は禁止されてしまった。だがその時代(幕末)になると、窯屋は役人を恐れなくなっていたので、北新谷の連中は少しばかり淡(うす)いかと思われる程度のルリ釉を焼きつづけた、そこで南新谷から取締りの強化を申し立てるので、役人は北新谷に出向いてルリは禁止になっているから焼くのは相ならぬと通達する。ところが窯屋はぬからず、前に焼いたルリの中でも特別に濃いものを持ち出し、これがルリ釉で、今焼いているのは浅葱色(あさぎいろ)でござるなどと役人を煙に巻いたものだ。

坑道掘りだったんですね。