田子倉鉱山

追記。万次郎先生の報告の引用(昭和19年7月)。
興味ある人は行ってみてください。
熊が多くて地形が険しいので、危ないですが。

宮下駅から53km只見に至り、更に県道凡そ6km田子倉までは自動車を通じ、小出只見線が開通すれば、ここに新駅建設の予定である。鉱床は只見川の支流白戸川にそつてその南方凡そ6km、裸沢山の南方に連なる稜線を跨いで、その頂上に近く主としてその西斜面に在り、海抜6−700米に過ぎないが、地形急峻、岩骨広く露出する。周囲は主として白色乃至淡紅色粗粒の黒雲母花崗岩からなるが、鉱床付近は主として前者の一部分を大規模に貫く半花崗岩状細粒緻密の白色花崗岩に属する。本岩は幅少なくとも200米、斜めに西南から東北に延び、その一部には石英及び長石の結晶に囲まれた多数の小空隙を散在し、これに主として放散状の輝水鉛鉱の集合を着生し、且つ一部分は輝水鉛鉱のみ、或は石英輝水鉛鉱脈に貫ぬかれる。それらは延長数米、厚さ数糎に過ぎぬが、屡々多数密集し、その間の母岩と共に採掘しても、輝水鉛鉱の平均含量0.28%に達する部分多く、全体として一大鉱体と認められ、脈状の一部では品位数%にも達する。且つ多くは粒粗く、硫化物または粘土を伴わず、選鉱に甚だ便利である。但し鉱床の性質上、高品位部の選択採掘困難で、大規模なる露天掘による低品位鉱の大量処理による外なく、その鉱量は稼行品位の如何によつて大なる変化を免れない。
(中略)
本鉱物は狐鉛として古くから村民に知られたが、昭和12年飯野四郎氏によって輝水鉛鉱と知られ、同15年大宝弥男二氏の協力を得て開発に努めた。偶々大東亜戦争によつて水鉛の需要加わつた為め政府の強力なる督励を受け、四條の探鉱坑道を穿つて、平均品位を確かめる一方、自動車道路を田子倉の対岸から白戸川に沿つて建設し、軍木平に一大選鉱場の建設を開始したが、輸送条件の悪化に伴なひ、大なる費用を投じたまま、工事半に建設中止の命を受け、その後の努力も功を奏せず、終戦と共に休山の悲運に会した。
しかしながら、その豊富な鉱量と、選鉱に便利な鉱質とは、今後の発展を可能ならしめる本地域最大の資源の一である。


この報告をもとに福島県鉱産誌の内容が書かれています。