実験の腕

ある合成反応について、単離収率の悪さが問題になり、「実験の腕が悪い」という話になりました。私じゃないんですが。
え?ちょっと言葉の使い方が違うよ。全然違うよ。
化学は再現性を最重要視しますから、再現できないのはうまくないのです。
きちんとした実験手順を踏めば、チャンピオンデータまではいかずとも、そこそこのデータ再現が出来なければ意味がありません。
もし、全く同じ操作をすることができれば、全く同じ結果が得られる。これが科学として重要なのです。
しかし、たとえ同じような操作をして、同じ量の化合物を扱い、同じように反応/単離操作をしても、露骨に差が出ることがあります。
これは、きちんと要所要所でツボをついた操作をして、反応の特徴や物質の特性などを熟知して、的確な判断とそれに基づくハンドリングをしているか否かの差です。
反応をきっちり止めるタイミング、中間体や生成物の性質に応じた扱い方などなど。書けばきりがありません。
きちんと突き詰めれば、必ず良し悪しの原因がありはずなんですが。
でも、隣で見ていても、どこがいいのか悪いのか、はっきりはわからないのです。
それが積算され、収率と純度の差になります。
それが「実験の力量」であり、「実験の腕」なのです。
ろ過の際にこぼしたとか、洗いが足りないとかは、それ以前の問題かと。


M先生が前に言っておられましたが、反応に関しては「失敗」ってのはないのです。
条件に応じて、自然の理(ことわり)に従って、エネルギー的に有利なように奴らは落っこちていくだけです。
反応の選択性が悪いのは条件や試剤が不適当で、そのために別の反応が進行するパスが同時に成立しているだけだよ、と。
「失敗」ってのは、こぼしたとかそういうミスの話だけです。


寸止め反応なんかは、きちんと観察してタイミングを読めなければ、収率は激減します。
混ぜ屋ではこれは出来ません。
しかし、それでは使えない技術なので、必要に応じてそれを混ぜ屋にも出来るようにしなければならないのです。
「モル計算なんてできません」って人でも、書いてある通りにやればきちんと合成単離が出来るレシピが樹立した状態で、やっと「使える反応」として認められます。
誰でも簡単にできる技術が意味があるということなのですが、この要となるのは、やはり研究初期の観察と考察なのでしょう。
「実験の腕」という適当な言葉でごまかしてはいけないよ、その言葉を使うのはもっと次元の高い話だよ、というオチです。