最近の科学ニュース記事について

最近の科学ニュースや、ウェブ上の記事をみると、しばしばがっくり orz くることがあります。
書き手が研究内容や研究の価値を理解しておらず、伝えようともしていない傾向が読み取れることが多々あるのです。
確かに科学技術は長年の積み重ねであり、50年前に比べると勉強しなければならない事柄は圧倒的に増えたのですが、それにしても昨今の状況はひどすぎるのではないでしょうか。
トンデモな記事も見受けられ、これが「科学技術立国」の報道かと、嘆きたいこともしばしば。


科学研究上の報道というのは、専門家(研究者)の得た新規な発見・発明を、一般人(視聴者・読者)に理解可能な状態で伝えねばならないという大前提があるため、両者の視野を持つことが必須です。
専門家の研究成果はもちろん玉石混交。まるっきりコピペでは到底紙面が足りませんし、必ずしも理解しやすい文脈ではない場合もあります。
そこで、大発見・大発明などの人目を引く研究成果は、論文もしくは学会で発表した後に、プレスリリースなどの形でマスメディアに公表されます。
記者の電話取材などによって情報を得ることも多いです。
しかし、それが記事になると、とたんに駄文になってしまうのはなぜなんですか?
昨今の報道はあまりに不勉強で、視野が狭く、短絡的で、理路整然としていません。
最悪のケース、間違ったことを記述していることも少なくありません。
要するに「報道」の体を呈していない、ということです。
もちろんきちんとした文章もあるのですが、自分の専門である化学関係の記事を見ると、ツッコミを入れずにすみそうなのは半分ぐらいの割合で、残り半分はどこかしらヘンです。


およその科学上の発見・発明は、まず学術的価値が先行して評価され、これが充分に吟味された後に、商業的な価値があるかどうかという視点から評価されます。
この二つの項目は基礎科学および応用科学という言葉でも表現されます。
順番はもちろん基礎科学が先で、基礎科学で得られた知見や理論を元に、これが何か役立つものにならないかという応用的発展に向かうわけです(その次に製品開発という、原価と利潤の兼ね合いという一番応用的な段階が待っています)。
基礎科学は科学技術全般の屋台骨になりますから、基礎科学をすっ飛ばして応用に行こうとすると、ひょんなところで開発が袋小路にはまり込み、悪くすると予想もしない展開によって根本からひっくり返ります。
基礎を飛ばして応用というのは、科学ではありえないわけです。
ところが報道はそういう段階を踏まなければならないというのがまったくわかっていないのです。
Nature, Science, Cell などの IF の高い雑誌に基礎的な研究成果が載って、新聞社が取材の電話をよこしても、出てくる言葉は「売れるの?」「なんの役に立つの?」こればかりだそうです。
おまえホントにそういう質問しか出せないのか、と。
もちろん一般大衆の目で見るとそういった応用的な「儲け話」はイメージしやすいため、そのような着眼点から記事を練り上げることは重要なのですが、研究成果の価値も、研究背景も聞きもせずにそれは無いんじゃね?と思うのです。
それはすなわち書き手が研究内容を理解しようとしていないということでしょう。
科学をどっぷりやっていると、自分の研究に関しては、どんな懐疑的な質問にも正しい論法で回答ができるような、隙の無い作業仮説を立て、これを実証しようと考えます。
ところが、新聞屋の書く文章は隙だらけで、正しくない表現、視点がボケボケということも多く、そのギャップに皆が苛立つわけです。


その大きな原因の一つだと思うのですが、科学担当の記者でも、当たり前の科学的な基礎の素養ができていないんじゃないでしょうか。
科学は高尚な理屈ではなく、生活をより便利に、潤いを持たせる知識群であり、道具なのです。
そういう見方が付いていないし、学術用語に対して鈍感すぎるのです。
いくつか例を挙げてみます。


点形状のエネルギー源から出たエネルギーは、空間を伝播すると、その強度は距離の二乗に反比例して観測されます。
これは球体の表面積から考えればすぐにわかることなのですが、この当たり前の知識が体得できていれば、騒音おばさんの住む住宅の隣より、三軒先の方が騒音レベルが劇的に低下するだろうし、放射性物質からある程度の距離を保っていれば(電磁波だけなら)、まあ安全だろうと考えるわけです。
ところが、そういう当たり前の基礎がまったく無い。
危ないものは離れてもやっぱり危ないと思うので、そういうものは排除しよう、存在を否定して、叩いておかなきゃ、という思考に達するわけです。
「どのくらい離れればいいのか」っていう考えは無いのでしょうかね?


物質の濃度についてもそうです。
溶質を溶媒で希釈すると、溶液ができます。
この溶液の有するもろもろの特性はその濃度に比例して大きくなり、濃度が小さくなるとその効果は小さくなり、効果が有為に観測されなくなった時点で、無視できる領域に達する、と。
溶液の中にはそのような「効果が目に見えるほどではない」溶質はいくらでもあるわけです。
海水中にはさまざまな元素が溶け込んでいますし、そこからウランのみを取り出すこともできます。
しかし、海水中のウランによる被曝についてさほど問題とされないのは、それが人間生活に影響を及ぼすような濃度ではないからです。
これがわかっていないと、「原子炉から放射性物質を含んだ排水が出た。ほんのちょっとでも放射性物質だから危ないぞ。責任者出て来い」という報道になってしまうわけです。
本来なら生理活性は連続的なものであり、しきい値なぞ存在するはずは無いのですが、生理活性の観測に妨害を及ぼすものはいくらでもあり、それでは有為の観測結果が得られなかったり、規制のしようがないからしきい値を設定しよう、という法規的な発想に達するわけです。
こういう考えに達していない。ただ煽るだけ。
書き手が科学の素養を持ち合わせていないので、当然読み手もそこから何の情報も引き出すことができず、煽りの尻馬に乗ってしまうんじゃないでしょうか。
ホメオパシーなんて荒唐無稽すぎやしませんか?」なんて論説で書くジャーナリストがいないのはなぜなんでしょう。
科学は論理性を重んじる学問であり、新しい理論はそれを提唱した側が立証責任を負います。
ホメオパシーを叩いても、中立の立場から外れていることにはなりません*1


 濃度にちょっと関係していますが、地殻中にはさまざまな有用物質が多く存在し、それを掘ることによって鉱業という産業活動が成り立っています。
経営が成り立つかどうかは市場における相場と、鉱山を経営して採掘して選鉱して精錬して製品にするまでの諸々のコストのシーソーゲームによります。
ですので、鉱床はあるのにぎりぎりのところで採算割れしてしまい、惜しくも鉱山としては成り立たない地下資源などはいくらでもあります。
それらは相場の上昇によって採算が取れるようになり、いつの日か鉱山として経営できる可能性もあるわけです。
技術はどんどん進歩して、選鉱精錬のコストは下がりますし、相場は神の見えざる手によって支配され、量が少なくなればニーズがある限り価格は上がります。
ですので、石油資源などの地下資源が枯渇するはずはないのです。
量が少なくなれば相場が上がり、今まで採算割れしていた場所が敗者復活戦に勝ちあがるからです。
それを知らないと、ドラム缶の中の石油のように「使い切ったらもう終わりだ」という間違った結論に到達しやすいのでしょう。
日本でも石油を掘って経営を成り立たせている会社があります。従業員が食べていけて、キャッシュフローを回せる鉱床はいくつもあるのです。
石油相場が上がれば、いろいろな場所で掘り始めます。
極端な話、石油が1リットル1万円まで価格上昇すれば、国内のいろいろなところに油井ができるでしょう。原油が混じる深井戸はかなりの数存在します。


「化学物質」という単語についてもそうです。
世の中の物質はすべてが原子からなり、それが結合した分子もしくは金属からなります。
単原子分子ももちろんありますが。化学屋に言わせれば、これらはすべてが「化学物質」です。
英語の “chemical” と、日本語の狭義の「化学物質」は同義ではありません。
人造のアスコルビン酸も、化学合成で作ったアスコルビン酸も、まったく同一の分子です。
不純物は違うでしょうけど。
ニュースを読むと「化学物質」がすべて危険で、できることなら分別して排除したいというような間違った考え方を垣間見ることが多いです。
人工的な化学物質だけを区別するのなら「化学合成物質(材料)」でしょう。
言葉に気をつけろ、と。
この間違った用法が、化学という学問の印象をとことん悪くしているのは確かです。
身の回りのものすべてが「化学物質」です。試薬瓶に入っているのもそうですが。
平均してみたら、有機合成化学より、天然物化学の人の方がよっぽど毒性の高い物質を扱っていると思うのですが*2
なお、天然のものが体によくて、化学合成で作ったものが悪いという考えは間違い以外の何物でもありません。
同じ分子で同じ集合状態なら、作用は完全に同一なのです。
天然毒を例に挙げたら枚挙に暇が無いほどあります。
もしギンナン(銀杏)とまったく同じものを化学合成で作り製品化したメーカーがあったとしたら、それは瞬時に化審法に引っかかって販売への道が閉ざされるか、商品化まで漕ぎ付けたとしてもきわめて危険な食品として扱われることでしょう。
乳幼児に30個も食べさせたら確実に中毒を起こし*3、処置しなければ致死率も高い食材なのですから。
天然物は優遇され、化学合成による物質はそこまで嫌われます。
それは天然物を法で規制することの難しさという問題も絡んでいるのですが、天然物・合成を問わず、危ないものは危ないのです。
経口で摂取される化学合成物質は化審法や薬事法の厳しい規制があるためむしろ安全性には問題が少なく、確率的にはいろいろな天然食材にチャレンジするほうがかえって危険だろうと思うのですが。


どうも、「知識がえり」が起きているんじゃないかと。
科学技術はどんどん進んでいるのに対し、記者の知識は進んでいるどころか、不勉強なのでむしろ逆行しているのではないか、と思うわけです。
情報化社会の流れの中で、記事を書く時間が(以前に比べ)少なくなり、文を練る暇がないというのも想像に難くありません。
だからといって、悪文ばかりを垂れ流していいか、というと、そういうわけにもいかないでしょ?
じゃあ、専門家の知識を使えばいいじゃないですか。
ちょっと前までは、新聞記事が間違ったことを書いてないかをチェックするために、専門家に細かく指示を仰いだという話を聞いています。
そういう努力を今でもしているんでしょうか?
よい記事、正しい記事を書くためには理解の深い人のクロスチェックが必須でしょう。
そういう記事作成上の機構ができてないのでは?


報道する立場の人間は、せめて大学教養課程程度の科学的な知識を理解し、基礎的な論理実証主義程度の論理性は持っていて欲しい、いや、持っていないとサイエンスに関する報道はできないんじゃないかと思うのです。
正しい適切な科学記事ってのは、書き手が考えている以上に大事なことです。
それを読んだ子供が、明日の「科学技術立国」日本を背負っていくわけですからね。

*1:もちろん、マスメディアも商業活動をして会社を回しているわけですから、スポンサーをけなすことはできません。大手電機メーカーのマイナスイオン商品広告の上の段に「マイナスイオンなんてないさ。マイナスイオンなんてうそさ」という記事は出せないわけです

*2:これは天然物化学の人が、その背景的に生理活性の高い物質を扱うことが多いためです。

*3:4-O-methylpyridoxineのせいだと言われています